kiicha51のブログ

NEWS大好き。香港からの留学生。日本語勉強中。

渋谷と1と0と:超個人的な感想

㊗️ショートフィルム公開おめでとう!🎉

 

いつもしげちゃんが創り上げた世界観から沢山考えさせています。今回は『檸檬』の原文を、しげちゃんのショートフィルムを何回も拝読して拝見し、頭が痛くなったくらい回転させました。メモとして残そうと、このブログに感想を書かせていただきます。

 

申し訳ないことでございますが、日本語が母国語ではないので、見苦しい部分・理解の間違った部分がたくさんあるかもしれないが、どうかお許しください🙇🏻‍♀️これを機に日本語の文章表現を練習したいと。これからも頑張りたいと思います...!

 

 

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タイトルはすでに物語の設定や展開を明かした。1と0、黒と白、リネンサプライと作家、虚構と現実。

 

「何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。」

 

——リネンサプライのシゲアキはこう唸っていた。

小說『檸檬』の主人公はこうして、繁栄街の隅っこに建てられた果物屋に惹きつけられた。病気と借金に追い詰められた彼は、二日酔い後の焦燥と似たような感覚で、この体中に名も知らずに拡散した「不吉な塊」を、果てのない想像に任せて逃げた。想像力を通じて、彼は「二重写し」に身を置けた。そして、この崩れんばかりの町中にみるみるとぼかして消える自分の姿を見て楽しむことができた。

 

リネンサプライのシゲアキは毎日、繰り返す生活を送っていた。汚れた手ぬぐいを受け取っては、洗濯して畳んで、お客様の元に届けて、汚れた手ぬぐいを受け取っては、洗濯して畳んで…。

 

誰かが誰かの忘れ物を拾ってあげていた——横断歩道上に助け合っている人たちの姿が彼の目に映った。こんなに和んでいた風景を眺めながら、車にひとりぼっちの自分はまるで道端に捨てられた落とし物のよう、彼は孤独と苦痛を覚えた。あの「不吉な塊」が自分の体中に一気に広がったと確実に感じていた。小説の主人公のごとく、「二重写し」に浸かりたくなった。自分が『檸檬』の主人公だと想像した彼は、念仏を唱えるような唸り声で、この独白を読み上げた:

 

「…汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが…。」

 

あえて原作の「好きであった」という最後の一言までは言わなかった。彼はただ、車を運転する気も無くなったくらい、目の前に展開された通りかかった人たちの物語をじっと見ていた。——この人にとっては、自分を二重写しに囚われて現実逃避していいのか?実は、願わくば拾われた落とし物に化したい。実は、檸檬を爆弾だと喩える表現に無力感を覚えた。この人は、現実を抗えるため、妄想に酔いしれることが、本当に欲しがっているのか?


それでも、いつものような生活を繰り返し続かないといけなかった。汚れた手拭いを回収するように、彼はお客様の元に足を運ぶ。この瞬間だった。「不吉な塊」という曖昧な言葉を具体的な形にしていたみたいに、鼻から咄嗟に片方の真っ赤が垂れていたこの瞬間だった。彼も同じくこの言葉に思いを馳せただろう。車内の鏡越しに情けない自分を覗いてみた彼は、『檸檬』の書き出しを淡然と唱え始めた:

 

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。」

 

しかし、今度こそ、彼はもう道端に捨てられたがらくただと言われては済まなかった。彼はもう自分に媚びられる見すぼらしくて美しいものではなくなった。今度こそ、自分の所有物を使って彼の存在を証明する人が現れた。この触感は、馴染んでいた手拭いではなく、誰かの手のひらからもらったハンカチだった。体温に染められて、熱量に色付けられたハンカチだった。

 

或いは鼻から出た血液が「不吉な塊」ではなかった。彼は『檸檬』の主人公と同じ体験をした。檸檬の香りが鼻に突かれた彼の血液のほとぼりは沸かして、外側にぱっと、溢れ出しただけ。ハンカチを受け取った彼は、檸檬を手に入れた主人公が得た感情を味わった。そこで、彼は主人公が檸檬を本の上に置いた後に、嬉しくて落ち着けない思いを、こう語っていた。

 

「私は変にくすぐったい気持がした。『出て行こうかなあ。そうだ出て行こう』そして私はすたすた出て行った。変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。」

 

檸檬は山のように積み上げた本の色彩を一冊残らず全部吸収した——小説の主人公はこうして、自分の想像に心を弾ませた。その一方、リネンサプライのシゲアキは、実在する血まみれのハンカチを手に持って、ベルニーニが彫った『聖テレジアの法悦』と似たようなエクスタシーを心が刻まれた。

 

ところが、次の瞬間にこの世界へ足を踏み入れたのは、作家のシゲアキだった。彼は、リネンサプライのシゲアキが一番を苦手な文章を読みながら登場した。

 

丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。」

 

リネンサプライのシゲアキはキレイなハンカチを水に入れて洗浄した。ただし、作家のシゲアキは汚れだらけの手拭いを水面に広げた。——リネンサプライのシゲアキも、作家のシゲアキが虚構した想像であることをふと思い出させた。

 

「汚れたものを受け取って、白いものを渡す。」——この職業について、作家のシゲアキは最初にこう述べた。しかし、黒く染められた手拭いを拾ったのは、作家のシゲアキだった。作家のシゲアキの目に映したのは、手拭いを使って顔を拭いた年配の方。しゃがんで何かを拾おうとする子供たち。——彼は、リネンサプライのシゲアキの苦難と欲望を手に握っていた。虚構の自分を想像に依存させたのは彼自身だった。そして、救いを求めるサイレンを響くように、虚構の自分を虚構の中で言い淀ませたのも、彼自身だった。

 

かといって、このサイレンの響きさえも、作家のシゲアキの想像に過ぎなかった。カフェに席を取った作家のシゲアキは、洗濯した手拭いを城壁のように積み上げた。まさに檸檬の主人公の行動に重なっていた。檸檬の主人公が檸檬(本体)から得た開放感も、リネンサプライのシゲアキが檸檬(小説)から得た現実逃避の失敗経験も、全部、彼の狂想だった。作家のシゲアキも自我が見失ってしまう「二重写し」の中に囚われている。

 

「私はこの想像を熱心に追求した。」

 

1と0、黒と白、リネンサプライと作家、虚構と現実。

 

察しはつくだろうがここまで書いたこの感想文には、第一人称を使ったことが一切なかった。おそらく、作家のシゲアキさえ私の想像に生きている人物に過ぎないかもしれない。結局、この世には、誰もかも「二重写し」に自分を見失った被害者と加害者だった。

 

——「なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。」

 

 

https://youtu.be/xCKepf9uMaE